昭和48年02月27日 末永ヤス25年霊祭
信心と言うのは、これだけしたからと言う事はない。限りがないことだと言う事を、まぁ本当に実感的に、今日私は感じさせて頂いたんだけれども。今日は当然あの壱岐の教会でも、式年祭があっておるだろうと思うけれど。それを例えば孫の皆さんが、こちらにどうぞ三時五分から、それぞれをまぁ言うなら、遥拝するような思いで玉串だけでも上げさせて頂いてと言う様な、あの軽い気持ちで、私は思いましたから。
朝もここへ出てきてから、こらもうきちっとお祭りが出来るようにお掃除がしてあるし、こちらで式年祭を仕えると言うた所で、こちらではそんなにすることは要らんのに、大げさな事をしてからとまぁ言うてあの、まぁ私は久富先生に話たとこやった。そらまぁそんな風な思いでおるならば、ほんならこら開業せないくまいから、改めてほんなら干物類も作って入れて、あの収めるからといけのほうへ、それでもまぁだ私は御祈念に合わせて、私があの、お礼を申してもらうち言う事だったけれども。
開扇やらがあるなら(?)二人で仕えよるという事である。そしたら今度の用意もちゃんと出来て、それからあの勝手のほうへ下がって、久富先生と二人で仕えるつもりで、あの勝手へ下がったら、琴のほうは直子がおかげ頂くなら、僕が祭員を努めさせて頂こうかと、こうあの光昭が言う。ふんそれならそらなお良かたいと言うて、まぁさせてもらっている。それからあの若先生は具合が悪かったから、とても出るとは思わなかったけれども。ほんなら、僕が御結界奉仕をしましょうと。
そんなら上野先生に言うてから、あの何時もの様に、しどりをやってもらうと言うて、まぁ結局はあの本当の式年祭を、ここでやっぱり、仕えたような形になってしまったわけなんだけれども。これだけでも例えばあの、それを仕えて頂きたいという者の思いというものが、そうではない、仕え渡しそうではないけれども、そうしなければならないように、段々とね、そういう働きと言うものが、あのこう押しやられるようにして、その御用が出来たと思うよね。
それだけでもあの、例えばなるほど玉串だけでも出来るし、お茶一服でも出来るのだけれども、あの思いを込めてさせていただきゃ、あのもうあちらであっとるから、こちらでどうと言う事じゃなくて、思いを以ってすると、もうどれだけでも限りがないことになっとると。例えこれがほんなら、お祭りがダブっておっても、それで良いんだと言う様な事を、あの、感じさせて頂いた。
そういう感じさせて頂いたお祭りだった。だからあの御霊様を奉っとったら、家の家内のお誕生の時にうちの子供達が、杉の丸太をこう切って、斜めに切った奴をね。んにゃあの、お母さんお誕生おめでとうと言うあれを、家内に送ってきてるわけです。それを家内が、やっぱり、子供達から頂いたんじゃからと思うて、ちゃんとあの鏡台の横に、何時も置いとるもん。ですからあのそれを頂きます。ですからあの確かに帰幽日と言うのは、御霊様の誕生日ですね。
だから言うならばもうお位牌、それをほんなら遠方におる孫達が、ここであの、お婆ちゃんにプレゼントをさせて貰うて、まぁその( ? )心を使うて、そのプレゼントしてもらうような意味合いで、そのお供え物なんかでも、揃えさせて頂いて、もうあっちでしとるけん、どうじゃなくて、そういうものを抜きにして、いうなら、信心でさせて頂いておる。過ぎたるは及ばざるが如しと言うふうに、( ? )ちょっと過ぎとるねと言うて、私は朝、久富先生と話したことじゃった。
ぐらいだった。だから今度は、私の気持ちが、全然その気にならなかった。けれども、結局は、私をしてやっぱ何時もの人員を使うて、楽員を使うてほんなら、例えば直子達なんかでも、私が言うと何とかかんとか言うてから、なかなか御用に出てこんのだけれども。自分から、今日は、私が、太鼓をおかげ頂くとじゃろと言う風に言う。お前がその気ならば、私が、祭員仕えようかと。あんたもほんなら(しばらく聞き取れません)
だからもう信心には、本当にこれでよいと言った様な事はないなぁと言う事をね。あの、限りがないんだなぁという事を、本当に痛感させていただいた。同時に御霊様の、言うならば、お誕生日に際して、孫達の思いが、あのこのお祭りに、形だけを通して、お送りさせていただいた。それをまた喜んで受けて頂いて、これだけは、何時までも鏡台の横に飾っときたいような思いで、掛けて下さったのじゃないかと思うたですね。